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佐野陽子ゼミナール同窓会は、慶応義塾大学商学部「佐野陽子研究会」所属の卒業生の交流の場として発足しました。

佐野先生からのメッセージ


2011年6月 岩手県宮古市在住  17期生・生内泰斗君の近況



 このたびの東日本大震災では、佐野ゼミ同窓会員の中に、ただ1人被災者がいました。それは、17期・1987年卒の生内(おぼない)泰斗君です。旧姓は梅木君で、おばさんのプレタポルテ(高級婦人服)の仕事を学生時代から手伝っていました。その仕事の関係で、宮古市へ展示会で行ったとき奥様と知り合い、結婚して宮古に住むことになったのです。奥様の実家は水産物仲買・卸業でした。

 このたびの震災では、義理のご両親を亡くし、住んでいた家も流され、いまは両親の住んでいた家にいるそうです。仕事は、水産ブローカーなので、国の2次補正により補助金を待っている取引先が一刻も早く復興するよう頑張っています。加工場がもとに戻らないと扱う商品が出てこない状況です。いろいろの後始末に追われる毎日で、被災地の厳しさが伝わる便りが来ました。

 私は、県立宮古短期大学に10年ほど、毎年、集中講義で通っていたことがあります。大学は高台にありますが、市内では魚菜市場へ行ったり、合板工場を見学したり、いろいろな体験をさせてもらいました。街中は全部津波にやられたことでしょう。

 地震後は、生内君のところに電話は通じず、同期の水谷君に消息を探してもらっていました。先日、旧住所宛に郵便を出したところ返事が来ました。さらに、近況を示す写真が送られて来ましたのでここに紹介いたします。


我が家の周辺何もない。
解体後の我家です。
娘が通った小学校です。
宮古魚市場の横のガレキの山です。






























津波の時、私が避難した高台のビル

2011年 5月22日 佐野陽子ゼミナール第6回総会・懇親会に出席して



 去る5月21日(土)の午後、表参道にあるロイヤルガーデンカフェで行われた同窓会に伺いました。五月晴れにイチョウ並木が輝き、人々がそぞろ歩くおしゃれな東京の一角でした。
タメになる講演を聞き、同窓生の近況などを語らい、若き血と慶應賛歌を歌いました。その上さいごに、真紅のバラ80本の花束をいただきました。私が傘寿だからだそうですが、誰が数えていたのでしょう。
出席した方もできなかった方も、本当に有難うございました。でも皆さんも、年齢を重ねると時間の経つのが速くなりますからお気を付けて。ではお元気で。







2011年の年頭にあたって



 2011年は、今年も浅草寺の鐘の音を聞きながらつつがなく迎えました。皆さんも、ご健勝のうちに新しい年を迎えられたことと思います。
ゼミ同窓生のシニアグループが、毎年、旅行をするようになって10年以上が経ちますが、昨年11月には福岡‐佐賀‐長崎、一昨年は札幌‐旭川に行きました。行った先では、できれば同窓会支部会をつくろうと、札幌では北海道支部会を立ち上げました。福岡では九州支部会を計画していたのですが、九州の方たちがあまり集まらず、福岡支部会を立ち上げました。

そこで思ったこと。東京で見ていると、北海道や九州は大きく括れる。さらに、東北や関西も括れる。これは地理というとこのようなブロックに分かれていますから当然と思いがち。しかし実のところ、東北といっても東京と各都市は新幹線もできて交通が便利になりましたが、東北を横断するのは極めて不便です。九州も同じで、大阪や東京とは便利でも横断するのは不便です。ですから、東北や九州単位で集まろうとすると大変な困難をきたすのです。これは、明治以来の中央集権体制ばかりでなく、江戸時代の参勤交代システムが根付いているのでは。つまり、中央とは仲良く、隣組はご法度という制度。人や物の流れは、いまもなお、このような歴史に裏付けられているのでしょう。
そこで、地理的に近いからといってブロックや道州で括るというのは、「絵に描いた餅」。札幌で北海道支部会ができたのは、会員が札幌・旭川地区に集中していたからであって、九州支部会などは至難の業。福岡支部会ができたのは大変結構なことでした。旅行を通じてこのような勉強をしました。それにしても日本の交通網は過密都市・東京の集積を進めるばかり。これでいいのでしょうか。


バナースペース

佐野陽子ゼミナール同窓会